空蝉,即蝉的幼虫变为成虫时脱下的外壳。在汉语里有“蝉蜕”、“空蝉脱壳”这样的说法。在日语里,读音「うつせみ」,最早出现在<万叶集>里,意思是「活在今世的人」,或「今世」、「现世」。使用汉字来表示时,则用了「空蝉」二字,盖因蝉的生命短暂,以此来比喻人生的变化无常和虚幻缥缈。
另外,在<源氏物语>里,有「空蝉」这一章,描写的是一个不肯接受源氏之爱,坚守清白的女子,名「空蝉」。在整个物语中,光辉的源氏一生中拿下了诸多女子,但「空蝉」是个例外,地位很特殊,堪称奇葩。
再来看佐田雅志的这首歌。歌词很简单,不象「まほろば」和「春告鳥」那样令人摸不着头绪。但是,佐田为什么用「空蝉」来给这首歌命名呢?
线索在歌词的第4句:「仔犬だけを現世の道連れに」。
这一句中的「現世」是「うつせみ」,而歌名「空蝉」也是「うつせみ」。前者是现实中存在的“现世”,后者则是虚幻的“现世”,即「空蝉」。
生活在“现世”中的老夫妻,幻想着去大城市工作的唯一的儿子会来接他俩,于是每天都来车站等候,而他们的儿子却并非“现世”中的人,只存在于「空蝉」里。这对孤独的、可怜的老夫妻再也不可能见到他么的儿子了。
空蝉
作詞:さだまさし
作曲:さだまさし
名も知らぬ駅の待合室で
僕の前には年老いた夫婦
足元に力無く寝そべった
仔犬だけを現世の道連れに
小さな肩寄せ合って
古新聞からおむすび
灰の中の埋火おこすように
頼りない互いのぬくもり抱いて
昔ずっと昔熱い恋があって
守り通したふたり
いくつもの物語を過ごして
生きて来た今日迄歩いて来た
二人はやがて来るはずの汽車を
息を凝らしじっと待ちつづけている
都会へ行った息子がもう
迎えに来るはずだから
けれど急行が駆け抜けたあと
すまなそうに駅員がこう告げる
もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました
もう汽車は来ません とりあえず今日は来ません
今日の予定は終わりました