①本年表是在最完整的日版年表基础上修改翻译+补充。为了方便查询,重要事件,战役都加了链接,点击可以看到中日文的详细说明。中文的介绍来自wiki百度等,可能有不够详细地方,没办法。
②人物介绍的日文链接是原来就有的,但是不够详细,如果想看详细的请自行日文wiki或其他资料。
③因为原版的一些条目过于简略,为方便理解,部分日文描述后追加了带链接的事件或战役名。另外,中文部分也根据日文资料在能力范围内做了补充,算是现学现卖吧,但我是不会瞎写的。这段历史倒是挺有意思的,就是弄起来很麻烦。。。。。
2013.4.14终于完成了。。。。好了,最后,转载请注明。
【需要了解的专有名词】
国:本年表中出现的“国”,并非是指国家,而是古代日本律令制下的地方行政单位,如“上野国”,“相模国”等,这些行政区被统称为“令制国”,也称“律令国”。
守護:守护。镰仓幕府,室町幕府设置的武家官职。一“国”的军事指挥官,行政官。要注意的是相比于镰仓时期的守护,室町时期的守护又称“守护大名”,他们不仅仅拥有军事行政上的管理权限,同时也拥有经济上的治理权,这种由守护大名统治领国的体制也被称为“守护领国制”。守护大名也是以后出现的战国大名的前身。
一揆(いっき):古代日本的人民起义,语源出自《孟子》。为达成某种共同目标,通过各种盟约,契约而结成的政治共同体,以及在此基础上针对既存政权进行的包括武装起义在内的抵抗运动。需要注意的是,能够进行政治请愿,武装起义等活动的这种政治共同体本身就是“一揆”,而并非单指叛乱和暴动。
土一揆(つちいっき•どいっき):室町时代中期至后期,底层民众形成连带组织(=一揆)为求“德政”而向幕府或守护官进行政治请愿或起义的行为被称为土一揆。绝大多数土一揆是以要求“德政令”为目的,因此也被笼统的称为徳政一揆。
徳政一揆(とくせいいっき):土一揆的一种,以要求德政令为目的。
德政令(とくせいれい):朝廷,幕府针对高利贷商人,债权拥有者,金融业者等发布的要求其放弃债权,免除债务的法令。
国一揆(くにいっき):南北朝时代、室町时代在地方拥有势力的武士,领主层发起的“一揆”。针对幕府,守护大名等的政治,军事压力,为确保领主权不被侵犯,地方豪族联合起来,率领民众发动的起义。
其形成的契机及主要原因有:1.怀有一定政治意图的,由上至下建立的组织。2.以对抗新任“守护(军事指挥官,行政官)”为目的结成的军事组织。3.以追放现任守护势力为目的而结成的组织。
一向一揆(いっこういっき):由净土真宗本愿寺教团(一向宗)信徒主导发起的一揆。
戦国時代(日本):日本历史上15世纪末至16世纪末战乱频发的时代。一般是以1467年应仁之乱或1493年明应之变为开端,以1568年织田信长入京,或1573年室町将军足利义昭被信长追放为终结。也有以1590年丰臣秀吉统一天下,1600年关原之战,或是更往后的1615年大坂之役为终期的说法。
1428~1491年【応仁之乱(应仁之乱)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
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1428 | 正長 | 元 | 9月18日、正長の徳政一揆発生。 正长德政一揆(正长土一揆)爆发。这是第一次由农民发起的一揆。 | 1428.11.13 |
1429 | 2 | 1月19日、播磨の土一揆発生。赤松満祐京より帰国。 播磨土一揆爆发。赤松满佑由京归国。镇压。 | 1429.3.13 | |
永享 | 元 | 3月15日、足利義教室町幕府第6代将軍となる。 足利义教成为室町幕府第6代征夷大将军。 | 1429.4.26 | |
1437 | 9 | 6月15日、上杉憲実、足利持氏による討伐を恐れ相模国藤沢に退く。 上杉宪实因畏惧足利持氏前来征讨,退入相模国藤泽。 | 1437.7.16 | |
7月11日、足利義教弟•大覚寺義昭、挙兵の陰謀露見し大和国に出奔。 足利义教的弟弟,大觉寺义昭起兵谋反的阴谋败露,逃往大和国。 | 1437.8.12 | |||
8月13日、足利持氏、上杉憲実を慰撫。 足利持氏安抚上杉宪实。 | 1437.9.22 | |||
1438 | 10 | 8月14日、上杉憲実、足利持氏と不和のため上野国に逃れる。 上杉宪实因与足利持氏不和逃往上野国。 | 1438.9.12 | |
8月16日、足利持氏、上杉憲実討伐に出兵。 足利持氏出兵征讨上杉宪实。 | 1438.9.14 | |||
8月28日、幕府、足利持氏討伐の軍を発す[永享の乱] 幕府出兵讨伐足利持氏。【永享之乱】 | 1438.9.26 | |||
11月5日、足利持氏、捕らえられ出家。 足利持氏被捕,入称名寺出家,后转移至永安寺,被幕府幽禁。 | 1438.12.2 | |||
1439 | 11 | 2月10日、上杉憲実ら、足利持氏を攻め自殺させる。 上杉宪实为持氏说情反被义教怀疑,后不得不进攻永安寺,迫使足利持氏自杀。 | 1439.4.2 | |
1440 | 12 | 3月4日、持氏の子の春王丸•安王丸常陸国茂木城に挙兵。結城氏朝はこれを助け、後に結城城に迎える[結城合戦] 持氏之子春王丸•安王丸于常陆国茂木城起兵造反,得到结城氏朝,持朝父子支持,被迎入结城城,公开反抗幕府。【结城合战】 | 1440.4.14 | |
1441 | 嘉吉 | 元 | 3月13日、島津忠国、幕命により大覚寺義昭を日向国で自殺させる。 岛津忠国,受幕府之命于日向国迫使大觉寺义昭自尽。 | 1441.4.13 |
4月16日、結城城陥落し、結城氏朝戦死。持氏遺児春王丸•安王丸•永寿丸囚われる。 结城城陷落,结城氏朝战死。持氏遗子春王丸•安王丸•永寿丸被囚。(注1 | 1441.5.15 | |||
5月16日、幕府の名を受けた長尾実景、春王丸と安王丸を美濃国垂井で斬殺。 受幕府之命,长尾实景于美浓国垂井将春王丸•安王丸处死。 | 1441.6.14 | |||
6月24日、赤松満祐、将軍•足利義教を誘殺し、播磨に逃亡する[嘉吉の変] 赤松满佑,借结城合战庆功宴之机设伏诱杀了大将军足利义教,并逃回领地播磨。【嘉吉之乱】 | 1441.7.21 | |||
9月10日、山名持豊軍により播磨国木山城陥落す。赤松満祐自害。 山名持丰军攻陷播磨国木山城。赤松满佑自尽。 | 1441.11.3 | |||
1449 | 宝徳 | 元 | 1月、上杉房定、永寿丸を鎌倉公方とし、幕府もこれを許可。 上杉房定推举永寿丸为第五代“镰仓公方”,得到幕府许可。 | |
9月9日、永寿王鎌倉入りし、上杉憲実逃れ去る。 永寿王丸入镰仓,上杉宪实逃走。 | 1449.10.4 | |||
11月13日、永寿王、将軍足利義成(義政)から一字を貰い、足利成氏と名乗る。 永寿王丸,从将军足利义成(义政)处得赐一“成”字,改名足利成氏。 | 1450.1.4 | |||
1450 | 2 | 4月、長尾景仲ら鎌倉を襲い、足利成氏は江ノ島へ逃れる。 长尾景仲等袭击镰仓欲发动政变,但事前得到消息的足利成氏趁夜离开镰仓逃入了江之岛。 | 1450.6.9 | |
8月4日、足利成氏江ノ島から鎌倉に戻る。 足利成氏从江之岛返回镰仓。 | 1450.9.19 | |||
1452 | 享徳 | 元 | 4月21日、鎌倉府、関銭を納めずに小田原を通過することを禁ずる。 镰仓府下令不缴纳通行税不得通过小田原。 | 1452.5.19 |
1454 | 3 | 12月27日、足利成氏、上杉憲忠を攻め殺し享徳の乱始まる。 足利成氏趁景仲不在之机将上杉宪忠招入府邸,将其谋杀。上杉家宅邸也受到袭击,享德之乱始。 | 1455.1.23 | |
1455 | 康正 | 元 | 1月21日、長尾景仲らが足利成氏と武蔵分倍河原にて戦う。上杉憲顕•顕房戦死。 长尾景仲等与足利成氏在武藏分倍河原激战。上杉宪显•显房战死。 | 1455.2.16 |
6月16日、今川範忠軍鎌倉に入り、足利成氏は古河に拠り古河公方となる。 今川范忠军攻入镰仓,足利成氏将古河做为新根据地,成为初代古河公方。 | 1455.8.8 | |||
7月1日、幕府、畠山義就と畠山政長を和解させる。 幕府促使畠山义就与畠山政长和解、 | 1455.8.22 | |||
1457 | 長禄 | 元 | 4月8日、太田道灌、江戸城を築城す。 太田道灌,筑起江户城。 | 1457.5.10 |
5月15日、蝦夷南部にてコシャマインの乱勃発し武田信広これを鎮圧す。 以渡岛半岛东部大首领胡奢魔犬(即コシャマイン)为中心的阿伊努联军南下引发动乱,后被武田信広(guang)镇压。 | 1457.6.16 | |||
12月19日、足利義政、弟を還俗させ政知とし伊豆の国堀越で関東を治めさせ堀越公方とする。 足利义政为了与古河公方足利成氏对抗,令其弟(兄)政知还俗并封为镰仓公方治理关东,然而政知却进不了镰仓,只能停留在伊豆国堀越,被称为堀越公方。 | 1458.1.13 | |||
1459 | 3 | 8月13日、幕府、京の七口に関所を置く。 幕府于京都七大出入口设置关卡。 | 1459.9.18 | |
1460 | 寛正 | 元 | 10月21日、幕府、関東奥羽の諸将に足利成氏討伐を命ず。 幕府命关东奥羽诸将讨伐足利成氏。 | 1460.12.12 |
1464 | 5 | 12月2日、義政、弟の浄土寺義尋を還俗させ、義視とする。 义政令净土寺的弟弟义寻还俗,改名足利义视。 | 1465.1.8 | |
1467 | 応仁 | 元 | 1月18日、応仁の乱、勃発す。 应仁之乱爆发。 | 1467.3.2 |
1468 | 2 | 11月13日、足利義視、ひそかに西軍に入る。 足利义视,秘密进入西军。 | 1469.1.4 | |
1471 | 文明 | 3 | 本願寺蓮如が越前国に、吉崎道場を設立する。 本愿寺莲如于越前国设立吉崎道场。 | |
1473 | 5 | 3月13日、山名宗全死亡。享年70歳。 山名宗全死亡。享年70岁。 | 1473.4.19 | |
5月11日、細川勝元死亡。享年44歳。 细川胜元死亡。享年44岁。 | 1473.6.15 | |||
1474 | 6 | 加賀国で一向一揆が起こる。 加贺国爆发一向一揆。 | ||
1476 | 8 | 伊勢新九郎長氏の働きで、今川氏親家督を継ぐ。 在伊势新九郎长氏(北条早云)的帮助下,今川氏亲继承家督。 | ||
1477 | 9 | 11月11日、土岐成頼が美濃に足利義視を奉じて帰国する。応仁の乱がほぼ終わる。 西军解体,土歧成赖也追随足利义视回归美浓国。应仁之乱基本结束。 | 1477.12.25 | |
1481 | 13 | 朝倉孝景が「敏景十七ヵ条」を制定する。 朝仓孝景制定《朝仓孝景十七条》。 | ||
1482 | 14 | 11月27日、足利義政、足利成氏と和解する。 足利义政,足利成氏和解。 | 1483.1.15 | |
1485 | 17 | 12月11日、山城国の国人が集結する。山城国一揆 山城国国人集结。 | 1486.1.26 | |
12月17日、山城国の両畠山軍がすべて引き上げる。 经谈判)山城国两畠山军全部撤退。 | 1486.2.1 | |||
1486 | 16 | 太田道灌が上杉定政に暗殺される。 太田道灌被上杉定政暗杀。 | ||
1488 | 長享 | 2 | 6月9日、加賀の一向宗徒が守護の富樫氏を滅ぼす。加賀一向一揆 加贺一向宗徒歼灭守护富樫(jian)氏。 | 1488.7.26 |
1489 | 延徳 | 元 | 足利義尚、近江で陣没。 足利义尚,于近江阵亡。 | |
1491 | 5 | 4月3日、堀越公方足利政知没す。 堀越公方足利政知去世。(病死) | 1491.5.20 |
1491~1546年【幕府落日(幕府落日)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
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1491 | 延徳 | 5 | 10月、伊勢新九郎が堀越公方の茶々丸を滅ぼす。 伊势新九郎(北条早云)灭堀越公方足利茶茶丸。 | |
1493 | 明応 | 2 | 細川政元が第10代将軍足利義尹(義稙)を追放する。明応の政変 细川政元将室町幕府第10代将军足利义尹(义稙)流放。明应之变 | |
細川政元、足利義澄を将軍として立てる。 细川政元立足利义澄为将军。 | ||||
1495 | 4 | 伊勢新九郎長氏が小田原城を奪う。 伊势新九郎长氏夺小田原诚。 | ||
1497 | 6 | 3月14日、毛利元就が生まれる。 毛利元就出生。 | 1497.4.25 | |
1499 | 8 | 足利義尹が大内義興をたよる。 足利义尹投奔大内义兴。 | ||
1507 | 永正 | 4 | 大内義興が足利義尹を奉じ山口を発す。 大内义兴以足利义尹入京为名,对九州,中国诸大名发动动员令,11月从山口出兵。 | |
1510 | 7 | 4月、朝鮮に於いて三浦の乱発生。 朝鲜爆发三浦倭乱。 | ||
1512 | 9 | この年、対馬•宗氏と朝鮮との間で壬申約定締結される。 这一年,对马•宗氏与朝鲜签订壬申约条。 | ||
1516 | 13 | 7月11日、伊勢新九郎長氏、三浦家の篭もる新井城を落とし相模統一す。 伊势新九郎长氏(北条早云)攻陷三浦家新井城(三崎城)统一相模。 | 1516.8.19 | |
1518 | 15 | 大内義興、山口に帰還。 大内义兴回归山口。 | ||
1519 | 16 | 伊勢新九郎長氏死す。 伊势新九郎长氏于韮山城辞世。 | ||
1521 | 大永 | 元 | 細川高国が細川澄元を破り、足利義晴を将軍とする。 细川高国击败细川澄元,拥立足利义晴为将军。 | |
11月3日、武田晴信生まれる。 武田晴信出生。 | 1521.12.11 | |||
1523 | 3 | 8月10日、毛利元就、家督を継ぐ。 毛利元就继承家督。 | 1523.9.29 | |
1523 | 大内氏と細川氏の間で寧浦の乱発生 大内氏与细川氏之间爆发宁浦之乱。 | |||
1524 | 4 | 1月13日、北条氏綱軍が扇谷上杉軍を高輪原で破り、江戸城を攻略。高輪原の戦い 北条氏纲军在高轮原击败扇谷上杉军,攻陷江户城。 | 1524.2.27 | |
4月、毛利元就の異母弟•毛利元綱が謀反の罪で討たれる。 毛利元就的异母弟弟毛利元纲计划谋杀元就,被毛利元就察觉以谋反罪讨伐杀死 | ||||
1526 | 6 | 4月、今川氏親、今川仮名目録を制定。 今川氏亲,制定今川假名目录。 | ||
11月12日、里見義豊が鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮が燃える。鶴岡八幡宮の戦い 里见义豊攻入镰仓,合战中作为源氏及镰仓守护神的鹤冈八幡宫失火。 | 1526.11.25 | |||
大内義興没す。 大内义兴去世。 | ||||
1527 | 7 | 8月、土岐頼芸が西村勘九郎の助力により、美濃国守護土岐政頼にクーデターを起こし成功する。 土岐赖芸在西村勘九郎(斋藤道三)的帮助下,对美浓国守护土岐政赖发动政变并成功。 | ||
1530 | 享禄 | 3 | 1月21日、長尾景虎生まれる。 长尾景虎(上杉谦信)出生。 | 1530.2.28 |
1531 | 4 | 三好之長、細川晴元を擁して細川高国を破り自害に追い込み、幕府の実権を握る。 三好之长拥护细川晴元击败并迫使细川高国自尽,掌握幕府实权。 | ||
1533 | 天文 | 2 | 7月27日、里見義豊、叔父実堯を討つ。 里见义豊杀死叔父実尧。 | 1533.8.27 |
1534 | 3 | 4月6日、実堯の遺児義堯、義豊を討つ。 実尧的遗子里见义尧杀死义豊。 | 1534.5.17 | |
5月12日、織田信長生まれる。 织田信长出生。 | 1534.7.1 | |||
1536 | 5 | 4月14日、伊達稙宗が塵芥集を制定。 伊达植宗制定尘芥集。 | 1536.5.14 | |
6月10日、花倉の乱で今川義元が勝利し、家督を継ぐ 花苍之乱中今川义元胜利,继承家督之位。 | 1536.7.8 | |||
7月、天文法華の乱が起こる。 天文法华之乱(法华一揆)爆发。 | ||||
1537 | 6 | 2月6日、木下藤吉郎が生まれる。(太閤記には1536年1月1日とある。) 木下藤吉郎(丰臣秀吉)出生(太阁记记载为1536年1月1日) | 1537.3.27 | |
1538 | 7 | 10月7日、第1次国府台の戦いで、北条氏綱軍が足利•里見連合軍に勝利す。足利義明戦死。 第一次国府台合战中,北条氏纲军战胜足利•里见联合军。足利义明战死。 | 1538.11.8 | |
1540 | 9 | 9月4日、尼子晴久が安芸に侵入。吉田郡山城を囲む。吉田郡山城の戦い 尼子晴久入侵安芸,兵围吉田郡山城。吉田郡山城之战 | 1540.10.13 | |
1541 | 10 | 1月13日、大内•毛利連合軍が尼子軍を破る。尼子軍は出雲に退却す。 大内•毛利联军击败尼子军。尼子军退往出云。 | 1541.2.18 | |
6月14日、武田晴信、父信虎を追放し家督を継ぐ。 武田晴信(武田信玄)将父信虎驱逐,继承家督。 | 1541.7.17 | |||
7月、北条氏康家督を継ぐ。 北条氏康继任家督。 | ||||
1542 | 11 | 1月11日、大内義隆、出雲遠征の軍を発す。 大内义隆发动出云远征军。 | 1542.2.5 | |
5月1日、斎藤道三が美濃国守護土岐頼芸を追放する。 斋藤道三将美浓国守护土岐赖芸(艺)驱逐。 | 1542.6.23 | |||
8月、織田信秀が三河国小豆坂にて今川義元を破る。第一次小豆坂の戦い 织田信秀于三河国小豆坂击败今川义元。第一次小豆坂之战 | ||||
12月26日、徳川家康が生まれる。 德川家康出生。 | 1543.1.22 | |||
1543 | 12 | 3月14日、大内軍が尼子軍に敗北、総退却す。 大内军败给尼子军,全面撤退。 | 1543.4.27 | |
織田信秀、朝廷に寄進。 织田信秀向朝廷上贡。 | ||||
8月25日、種子島にポルトガル人を乗せた船が漂着し、鉄砲が伝来す。 葡萄牙人的船只漂流至种子岛,枪传入日本 | 1543.10.3 |
1546~1568年【群雄割拠(群雄割据)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
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1546 | 天文 | 15 | 4月20日、河越の戦いにて北条氏康軍が上杉憲政・上杉朝定•足利晴氏連合軍に勝利。 河越城之战中北条氏康军战胜上杉宪政・上杉朝定・足利晴氏联军。 | 1546.5.29 |
12月、毛利元就、家督を嫡子・隆元に譲る。 毛利元就将家督之位让与嫡子隆元。 | ||||
1547 | 16 | 9月22日、加納口にて斎藤道三軍が織田信秀軍に勝利。加納口の戦い 斋藤道三军于加纳口击败织田信秀军。加纳口之战 | 1547.11.15 | |
10月、松平竹千代が今川家に行く途中にて織田家に奪われる。 松平竹千代(德川家康)在去往今川家途中因家臣背叛被送往织田家成为人质 | ||||
1548 | 17 | 2月14日、上田原にて村上義清軍が武田晴信軍に勝利。上田原の戦い 村上义清军在上田原战胜武田晴信(武田信玄)军。上田原之战 | 1548.4.3 | |
3月19日、小豆坂にて今川軍が織田軍に勝利。小豆坂の戦い 第二次小豆坂之战中今川军战胜织田军。 | 1548.5.7 | |||
長尾景虎が家督を相続する。 长尾景虎(上杉谦信)继承家督之位。 | ||||
1549 | 18 | 2月24日、織田信長が斎藤道三娘帰蝶と結婚。 织田信长与斋藤道三之女归蝶结婚。 | 1549.4.3 | |
7月3日、フランシスコ=ザビエル、鹿児島に上陸。 圣方济・沙勿略登陆鹿儿岛。 | 1549.8.6 | |||
11月10日、今川・織田人質交換。 金川织田人质交换。(松平竹千代(德川家康)被换往今川) | 1549.12.8 | |||
三好長慶、江口の戦いで細川晴元を破る。 三好长庆在江口之战中击败细川晴元。 | ||||
1550 | 19 | 7月13日、毛利元就、井上元兼を始めとする井上党を粛清。 毛利元就将以井上元兼为首的井上党肃清。 | 1550.9.4 | |
10月1日、武田晴信、戸石城にて村上義清に敗退。砥石城の戦い(砥石崩れ) 武田晴信(武田信玄)于户石城败给村上义清。砥石城之战(户石崩) | 1550.11.19 | |||
1551 | 20 | 3月3日、織田信秀没し、織田信長家督を継ぐ。 织田信秀去世,织田信长继承家督之位。 | 1551.4.18 | |
5月26日、武田方の真田幸隆の謀略により、戸石城落城。村上義清越後に亡命。 在武田方的真田幸隆的谋划下,户石城被攻陷(据『高白斎記』记载仅用了一天)。村上义清逃往越后。 | 1551.7.9 | |||
9月1日、大内義隆、陶隆房の謀反により自害。大寧寺の変 陶隆房谋反,大内义隆自尽。大宁寺之变 | 1551.10.10 | |||
1552 | 21 | 1月、上杉憲政、越後に亡命。 上杉宪政逃往越后 | ||
3月1日、大内家家督を大内義長が継ぐ。陶隆房、陶晴賢と改名。 大内义长继承大内家家督之位。陶隆房改名陶晴贤。 | 1552.4.4 | |||
1553 | 22 | 閏1月13日、織田信長傅役平手政秀諌死。 织田信长的傅役,平手政秀自杀。 (这里的“諌死”不是单纯的自杀,而是带着以死来警醒信长的意思。另外,“傅役”是负责重要的嫡男的养育教导的一个职位、通常是从最衷心的家臣中选出。) | 1553.3.7 | |
4月20日、正徳寺にて斎藤道三と織田信長が会見する。 斋藤道三与织田信长在正德寺会面。 | 1553.6.11 | |||
8月、第1次川中島の戦い。 第一次川中岛之战。 | ||||
長尾政虎単身上洛。 长尾政虎(上杉谦信)单身上京。 | ||||
1554 | 23 | 3月、武田・今川・北条の三国同盟成立す[善徳寺の会盟(甲相駿三国同盟)] 武田・今川・北条三国同盟成立。 | ||
11月1日、尼子晴久、新宮党尼子国久・誠久父子を殺害。 尼子晴久将新宫党尼子国久・诚久父子杀害 | 1554.12.5 | |||
1555 | 24 | 4月20日、織田信長、清洲を攻略。 织田信长占领清洲。(原清洲城城主织田信友被信长联合织田信光杀害) | 1555.5.20 | |
7月19日、第2次川中島の戦い。 第2次川中岛之战。 | 1555.8.16 | |||
10月1日、厳島にて毛利軍が陶軍に勝利。陶晴賢自害。厳島の戦い 毛利军于严岛击溃陶军。陶晴贤自尽。严岛之战 | 1555.10.26 | |||
弘治 | 元 | 10月23日、「弘治」に改元。 改元(改年号)“弘治”。 | 1555.11.18 | |
1556 | 2 | 4月20日、長良川の戦いにて斎藤義龍軍が斎藤道三軍に勝利。斎藤道三戦死。 长良川之战中斋藤义龙军战胜斋藤道三军。斋藤道三战死。 | 1556.5.9 | |
8月24日、稲生の戦いにて織田信長軍が織田信行軍に勝利。 稻生之战中织田信长军战胜织田信行军。 | 1556.9.27 | |||
1557 | 3 | 4月3日、大内義長が毛利元就に敗れ自害。 大内义长被毛利元就击败,自杀。 | 1557.5.11 | |
8月、第3次川中島の戦い。 第3次川中岛之战。 | ||||
11月、織田信行が再度謀反し、信長に討たれる。 织田信行再度策划谋反,被信长杀死。 | ||||
1558 | 永禄 | 元 | 2月28日、「永禄」に改元する。 改元“永禄”。 | 1558.3.28 |
1559 | 2 | 2月、織田信長単身上洛。将軍足利義輝に拝謁。 织田信长但身上京。拜见将军足利义辉。 | ||
4月、長尾景虎、単身上洛。将軍足利義輝に拝謁。 长尾景虎(谦信)单身上京。拜见将军足利义辉。 | ||||
北条氏康隠居。 北条氏康隐居。 | ||||
1560 | 3 | 5月19日、桶狭間の戦いで織田軍が今川軍に勝利。今川義元戦死。 桶狭间之战中织田军战胜今川军。今川义元战死。 | 1560.6.21 | |
6月15日、長宗我部国親没し、長宗我部元親が家督を継ぐ。 长宗我部国亲去世,长宗我部元亲继承家督之位。 | 1560.7.18 | |||
1561 | 4 | 3月、長尾景虎が小田原城を攻撃するが、撤退。 长尾景虎(谦信)进攻小田原城未果,撤退。小田原城之战(1561) | ||
閏3月、長尾政虎が関東管領上杉家を継ぐ。 长尾政虎(上杉政虎,谦信)从上杉宪政处继承了上杉家督同时也继承了上杉家世袭的关东管领之位。 | ||||
4月13日、森辺の戦いで斎藤龍興軍、織田信長軍に勝利。 (上面这一条记载可能因为历法不同和闰月等问题,把日期以及森边(森部)和十四条的结果搞混了。以下根据信长公记,日文wiki,信长之野望吧的朋友的讨论,以及在日站上询问的结果,作出如下改动) 5月14日、森部(森辺)の戦いが雨の中で行われ、結果として斎藤方の長井、日比野の両将が討死し、織田方大勝。 5月14日森部之战(森边)在雨中爆发,斋藤方长井,日比野两将战死,织田方大胜。 5月23日、龍興軍十四条に布陣。織田軍もこれに応戦し十四条で合戦となったが、劣勢の信長、退却。追撃の美濃勢と軽海で戦い、信長が勝利。闇も深くなったため斎藤軍は撤退。その後織田軍も墨俣に戻り、さらには清洲城に帰城した。 5月23日,斋藤军出兵十四条,织田军应战。两方在十四条村开战,信长军处于劣势,退走,并与追击的美浓军在轻海再次交战,这一次织田军胜。此时由于夜已深斋藤军没有继续追,而织田军也撤回了清洲城。 | 1561.6.6 | |||
8月3日、木下藤吉郎とねね結婚。 木下藤吉郎(丰臣秀吉)与宁宁结婚。 | 1561.9.22 | |||
9月10日、第4次川中島の戦い。 第4次川中岛之战。 | 1556.10.9 | |||
11月、大友軍が毛利軍に敗れる。 大友军败给毛利军。 | ||||
1562 | 5 | 1月11日、織田信長と松平元康が同盟[清洲同盟] 织田信长与松平元康(德川家康)结成同盟。【清洲同盟】 | 1562.2.24 | |
1563 | 6 | 7月、織田信長小牧山に築城。 织田信长于小牧山筑城。 | ||
1564 | 7 | 1月9日、第2次国府台の戦いで北条軍が里見軍に勝利。 第二次国府台合战中北条军战胜里见军。 | 1564.2.11 | |
2月28日、このころまでに三河一向一揆が平定される。 1564年1月15日马头原合战胜利,德川家康占到上风,开始和谈,不久三河一向一揆被平定。 | 1564.4.2 | |||
8月、第5次川中島の戦い。 第5次川中岛之战。 | ||||
1565 | 8 | 4月17日、毛利軍が月山富田城を包囲。 毛利军包围月山富田城。 | 1565.5.26 | |
5月19日、松永久秀と三好三人衆が足利義輝を暗殺。永禄の変 松永久秀与三好三人众串通谋反,最终杀死13代将军足利义辉。永禄之变 | 1565.6.27 | |||
1566 | 9 | 2月19日、足利義秋還俗。 足利义秋(足利义昭)还俗。 | 1566.3.20 | |
4月、織田信長が朝廷に献金。 织田信长向朝廷献金。 | ||||
9月24日、織田信長配下の木下藤吉郎が墨俣に築城成功したとされるが後世の創作とされる。 织田信长属下木下藤吉郎(之后的丰臣秀吉)于墨俣筑城成功。此城乃是一边应对敌人的攻击,同时动员3000多人不分昼夜施工,花费几天时间先造了个只有空壳的堡垒,之后几经改修才完成。后世所谓“墨俣一夜城”的逸话并非史实。【此段中间部分记得是某博物馆的介绍还是啥的,真实性不好说,我考虑了下还是加上了】 | 1566.11.15 | |||
9月29日、箕輪城を武田軍が攻略。 武田军攻占箕轮城。 | 1565.11.20 | |||
11月21日、尼子家が毛利軍に降伏。 尼子家向毛利军投降,战国大名尼子氏灭亡。 | 1568.1.1 | |||
12月、松平家康、徳川に改姓。 松平家康改姓德川。 | ||||
1567 | 10 | 3月、織田軍伊勢進出。 织田军进入伊势。 | ||
5月、織田・徳川軍に婚姻。 织田・德川联姻。 | ||||
8月3日、伊達政宗が生まれる。 伊达政宗出生。 | 1567.6.15 | |||
8月15日、織田軍により稲葉山城落城。信長は岐阜に改名し本拠をここに移転。稲葉山城の戦い 织田军攻陷稻叶山城。信长将地名改名岐阜并将据点迁至此地。稻叶山城之战 | 1567.9.27 | |||
8月23日、三船台の戦いで里見軍が北条軍を破る。 三船山之战中里见军击败北条军。 | 1567.10.5 | |||
9月、織田•浅井間に婚姻成立。 织田•浅井联姻。 | ||||
10月19日、武田義信自刃。 武田义信自尽(或病死)于東光寺。 | 1567.11.29 | |||
1568 | 11 | 2月、織田軍により北伊勢平定。 织田军平定北伊势。 |
1568~1582年【覇王降臨(霸王降临)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
---|---|---|---|---|
1568 | 永禄 | 11 | 7月27日、織田信長、美濃立政寺に足利義昭を迎える。 织田信长于美浓立政寺迎接足利义昭。 | 1568.8.30 |
7月29日、織田信長、美濃立政寺に出仕する。 织田信长于美浓立政寺仕官。 | 1568.9.1 | |||
9月7日、織田信長、上洛の軍を発す。 织田信长领兵开始上京。 | 1568.10.7 | |||
9月14日、織田軍により近江平定される。 织田军平定近江。 | 1568.10.14 | |||
9月26日、織田軍、入京する。 织田军入京都。 | 1568.10.26 | |||
10月18日、足利義昭征夷大将軍となる。 足利义昭成为室町幕府第15代征夷大将军。 | 1568.11.17 | |||
12月13日、武田軍により駿府城落城。 武田军攻陷骏府城。 | 1569.1.10 | |||
1569 | 12 | 1月5日、三好軍京に乱入するも織田軍に敗北。 三好军闯入京都但被织田军击败。 | 1569.1.31 | |
2月27日、二条城築城開始。 二条城筑城开始、 | 1569.3.24 | |||
5月17日、徳川軍により掛川城落城。今川家滅亡。 德川军攻陷挂川城。今川家灭亡。 | 1569.6.11 | |||
10月1日、武田軍、小田原城を包囲。 武田军包围小田原城。 | 1569.1119 | |||
10月6日、三増峠の戦いにて、武田軍、北条軍に勝利。 三增峠之战中武田军战胜北条军。 | 1569.11.24 | |||
1570 | 元亀 | 元 | 1月25日、織田信長が足利義昭に条書五ヶ条を送る。『五ヶ条の条書』 织田信长(以强硬的态度)将五条条书递交足利义昭。 | 1570.3.11 |
4月20日、織田軍、突如3万の兵を京から発す。 织田由京都突然发兵3万。 | 1570.6.3 | |||
4月27日、越前討伐中の織田軍に浅井長政離反の報が伝わり、全軍撤退。金ヶ崎の戦い 越前征伐中的织田军收到浅井长政背叛的消息,全军撤退。金崎之战 | 1570.6.10 | |||
4月28日、織田軍の殿軍の木下藤吉郎、金ヶ崎城より撤退。 负责殿后的织田军木下藤吉郎军队由金崎撤退。 | 1570.6.11 | |||
5月21日、狙撃されながらも織田信長岐阜へ帰還。 虽然受到狙击但织田信长还是回到了岐阜。 | 1570.7.4 | |||
6月4日、柴田勝家、長光寺城にて六角軍を破る。(瓶割り柴田の由来の戦となる)長光寺城の戦い 柴田胜家于长光寺城击败六角军。(此战为柴田胜家的美名“割瓶柴田”的由来。) | 1570.7.16 | |||
6月28日、姉川の戦いにて織田・徳川連合軍、浅井・朝倉連合軍に勝利。 姊川之战中织田德川联军战胜浅井朝仓联军。 | 1570.8.9 | |||
9月12日、石山本願寺、織田信長に対して挙兵。 石山本愿寺对织田信长起兵。 | 1570.10.21 | |||
11月21日、伊勢一向一揆、信長の弟・織田信興を討ち取る。 被伊势长岛一向一揆众包围,信长之弟织田信兴孤军奋战,最终自杀。 | 1570.12.28 | |||
1571 | 2 | 6月14日、毛利元就病死。享年75歳。 毛利元就病死。享年75岁。 | 1571.7.16 | |
9月12日、織田軍、比叡山延暦寺を焼き討ち。比叡山焼き討ち 织田军火烧比睿山延历寺。 | 1571.10.10 | |||
1572 | 3 | 9月、織田信長が足利義昭に条書17ヶ条を送る。 织田信长向足利义昭递交“条书17条”。这是一份针对义昭的严厉批判书。 | ||
10月3日、武田軍、上洛の兵を発す。 反信长派代表武田军发兵开始上京。 | 1572.11.18 | |||
12月23日、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。 三方原之战中,武田军战胜德川军。 | 1573.2.5 | |||
1573 | 天正 | 元 | 2月、足利義昭挙兵。 足利义昭举兵。 | |
4月12日、上洛の途にて武田信玄病死。享年53歳。 上京途中武田信玄病故。享年53岁。 | 1573.5.23 | |||
7月18日、織田信長、足利義昭を追放す。これにて室町幕府滅亡。 织田信长将足利义昭驱逐。室町幕府从此灭亡。 | 1573.8.25 | |||
8月17日、織田軍、朝倉家本拠•一乗谷城へ侵攻。朝倉義景自刃し朝倉家滅亡。 织田军攻入朝仓家大本营一乘谷城。朝仓义景自尽,朝仓家灭亡。 | 1573.9.23 | |||
8月28日、浅井家本拠•小谷城が織田軍により落城。浅井家滅亡す。 浅井家大本营小谷城被织田军攻陷。浅井家灭亡。 | 1573.10.4 | |||
1574 | 2 | 3月28日、織田信長、蘭奢待をうける。 织田信长割取兰奢待。 (兰奢待被誉为天下第一名香,天皇家的宝贝)不加入主观 | 1574.4.30 | |
6月17日、武田軍により、徳川方の高天神城落城す。第一次高天神城の戦い 武田军攻陷德川家的高天神城。第一次高天神城之战 | 1574.7.15 | |||
9月29日、織田軍により、長島一向一揆平定。 织田军平定长岛一向一揆。 | 1574.10.23 | |||
1575 | 3 | 5月21日、長篠の戦いにて織田・徳川連合軍、武田軍に勝利。 长筱之战中织田・德川联军战胜武田军。 | 1575.7.9 | |
7月、長宗我部元親、土佐統一。 长宗我部元亲统一土佐。 | ||||
8月19日、織田軍により、越前一向一揆平定。 织田军平定越前一向一揆。 | 1575.10.3 | |||
11月28日、織田信長、嫡子・織田信忠に家督と濃尾2国を譲る。 织田信长将家督之位连同美浓东部与尾张国的一部分让与嫡子织田信忠。 | 1576.1.9 | |||
1576 | 4 | 1月、織田信長、安土城築城に着手。 织田信长开始在安土城筑城。 | ||
2月23日、織田信長、安土に移る。 织田信长迁往安土。 | 1576.4.4 | |||
7月13日、第1次木津川口の戦いで、毛利水軍が織田水軍に勝利。 第一次木津川口之战中,毛利水军战胜织田水军。 | 1576.8.17 | |||
1577 | 5 | 8月17日、織田信長配下の松永久秀謀反。 织田信长属下松永久秀谋反。 | 1577.8.17 | |
9月17日、上杉軍、能登統一。 上杉军统一能登。 | 1577.11.7 | |||
9月23日、手取川の戦いにて、上杉軍が織田軍に勝利。 手取川之战中,上杉军战胜织田军。 | 1577.11.13 | |||
10月10日、織田軍により、信貴山城落城。松永久秀爆死。信貴山城の戦い 织田军攻陷信贵山城,松久永秀自杀(切腹或炸死未有定论)。信贵山城之战 | 1577.11.30 | |||
1578 | 6 | 3月13日、上杉謙信病死。享年49歳。後継者争いの御館の乱勃発。 上杉谦信病死。享年49岁。继承人之争的御馆之乱爆发。 | 1578.4.29 | |
7月3日、織田方の上月城落ち、尼子勝久自害。上月城の戦い 织田一方的上月城被攻陷,尼子胜久自尽。上月城之战 | 1578.8.16 | |||
7月16日、第2次木津川口の戦いにて、織田水軍が毛利水軍に勝つ。 第二次木津川口之战中,织田水军战胜毛利水军。 | 1578.8.29 | |||
10月21日、織田信長配下の荒木村重謀反。 织田信长属下荒木村重谋反。 | 1578.11.30 | |||
11月11日、耳川の戦いにて、島津軍が大友軍に勝利。 耳川之战中岛津军战胜大友军。 | 1578.12.19 | |||
1579 | 7 | 3月24日、御館の乱にて上杉景勝が勝利し家督を継ぐ。 御馆之乱中上杉景胜胜利,继承家督。 | 1579.4.29 | |
1580 | 8 | 1月17日、織田信長配下羽柴秀吉軍により三木城落城す。別所長治自刃。三木合戦 织田信长属下羽柴秀吉(丰臣秀吉)军攻陷三木城。别所长治自尽。 | 1580.2.12 | |
4月9日、本願寺顕如、石山を退去。 本愿寺显如接受了信长提出的和谈条件,后离开石山本愿寺。 | 1580.6.1 | |||
3月10日、織田信長、竹生島詣でに外出中に無断で外出した女中数名を斬ったとされる。 织田信长将自己去琵琶湖北竹生岛参拜期间私自外出(去桑実寺参拜)的侍女数名连同说情的长老一同处死。(注2参见原文)天正9年4月10日 | 1580.4.4 | |||
8月12日、織田信長、佐久間信盛を追放。 织田信长将佐久间信盛放逐、 | 1580.9.30 | |||
1581 | 9 | 10月25日、織田信長配下の羽柴秀吉軍が兵糧攻めにより鳥取城を落とす。 织田信长属下羽柴秀吉军使用断绝兵粮供给的方法攻陷了鸟取城。 | 1581.12.1 | |
1582 | 10 | 1月、大友ら3大名が天正少年使節派遣。 大友宗麟,大村纯忠,有马晴信3大名派遣天正遣欧少年使节。 | ||
3月11日、織田・徳川・北条連合軍の侵攻により武田勝頼自刃。武田家滅亡す。天目山 在织田・德川・北条联军的进攻下,武田胜赖自尽。武田家灭亡。 | 1582.4.13 | |||
5月15日、徳川家康、安土に挨拶を述べに参上。 德川家康拜访安土城。(信长命明智光秀招待。) | 1582.6.15 | |||
5月29日、織田信長、京・本能寺に入る。 织田信长进入京都本能寺。 | 1582.6.29 |
1582~1591年【天下一統(天下统一)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
---|---|---|---|---|
1582 | 天正 | 10 | 6月2日、明智光秀の謀反により京•本能寺にて織田信長落命。享年49歳。本能寺の変 明智光秀谋反,织田信长于京都本能寺自尽。享年49岁。本能寺之变 | 1582.7.1 |
6月2日、織田信忠、父・信長を救出しようとするが果たせず、自刃。 织田信忠欲救父亲信长未果,自尽。(详情参看本能寺之变) | 1582.7.1 | |||
6月3日、柴田勝家軍が上杉方の魚津城を落とす。翌日、本能寺の変を知る。 柴田胜家攻陷上杉家的鱼津城。次日得知本能寺之变。 | 1582.7.2 | |||
6月4日、3日に本能寺の変を知った羽柴秀吉軍が毛利軍と講和。 備中高松城は落城し、清水宗治自刃。急ぎ撤退を開始す。備中高松城の戦い 3日得知本能寺之变后,羽柴秀吉军与毛利军议和。 备中高松城落,清水宗治自尽。之后羽柴秀吉军紧急撤退开始返京。备中高松城之战 | 1582.7.3 | |||
6月5日、明智軍により安土城占領さる。 明智军占领安土城。 | 1582.7.4 | |||
6月13日、山崎の戦いにて羽柴軍、明智軍に勝利。 山崎之战中羽柴军战胜明智军。 | 1582.7.12 | |||
6月13日、退却中の明智光秀、京・小栗栖にて落命。享年55歳。 撤退中明智光秀于京都・小栗栖丧命(自尽或被杀未有定论)。享年55岁。 | 1582.7.12 | |||
6月15日、明智軍の坂本城落城。明智一族滅亡。 明智军的坂本城陷落。明智一族灭亡。 | 1582.7.14 | |||
6月15日、織田信雄軍安土城を燃す。 织田信雄军火烧安土城。 | 1582.7.14 | |||
6月18日、神流川の戦いにて滝川一益軍、北条軍に敗北。 神流川之战中泷川一益军败给北条军。 | 1582.7.17 | |||
6月27日、清洲会議にて羽柴秀吉が推す織田三法師が世継ぎと決まる。 清洲会议中羽柴秀吉支持的织田三法师(织田秀信)被定为织田家继承人。 | 1582.7.26 | |||
1583 | 11 | 4月21日、賎ヶ岳の戦いで羽柴軍、柴田軍に勝利。 贱岳之战中羽柴军战胜柴田军。 | 1583.6.11 | |
4月24日、柴田軍本拠、北ノ庄城落城。柴田勝家自害。 柴田军大本营北之庄城陷落。柴田胜家自尽。 | 1583.6.14 | |||
9月1日、羽柴秀吉、大坂城築城に着手。 羽柴秀吉于大坂城开始築城。 | 1583.10.26 | |||
1584 | 12 | 3月18日、沖田畷の戦いで、島津軍が龍造寺軍に勝利。龍造寺隆信戦死。 冲田畷之战中,岛津军战胜龙造寺军。龙造寺隆信战死。 | 1584.4.28 | |
4月9日、長久手の戦いで、徳川軍が羽柴軍に勝利。 小牧、长久手之战中德川军战胜羽柴军。 | 1584.5.18 | |||
10月、伊達政宗が家督を継ぐ。 伊达政宗继承家督之位。 | ||||
11月、織田信雄が羽柴秀吉と単独講和。 织田信雄与羽柴秀吉单独议和。 | ||||
12月、羽柴秀吉と徳川家康講和。 羽柴秀吉与德川家康议和。 | ||||
1585 | 13 | 7月11日、羽柴秀吉、関白叙任。 羽柴秀吉就任关白。(辅佐天皇执政的职位,已经是朝廷最高的官位了) | 1585.8.6 | |
8月6日、長宗我部元親、羽柴秀吉に降伏。土佐一国を安堵。 长宗我部元亲向羽柴秀吉臣服。土佐一国领主权得到承认。 | 1585.8.30 | |||
閏8月2日、真田昌幸軍が徳川軍を上田城で破る。上田合戦(第一次 神川合戦) 真田昌幸军于上田城击败德川军。第一次上田合战(神川合战) | 1585.9.25 | |||
11月12日、徳川家重臣の石川数正が突如羽柴秀吉の元に出奔。 德川家重臣石川数正突然出逃投奔羽柴秀吉。 | 1586.1.1 | |||
11月17日、人取橋の戦いで、苦戦の末伊達軍が二本松•芦名•佐竹連合軍に勝利。 人取桥之战中,伊达军以寡敌众,经过苦战战胜二本松•芦名•佐竹联军。 | 1586.1.6 | |||
1586 | 14 | 7月27日、岩屋城の戦いで、島津軍の前に大友家の高橋紹運軍が全員玉砕。 岩屋城之战,面对岛津大军,大友家高桥绍运军殊死反抗全员阵亡。 | 1586.9.10 | |
10月17日、徳川家康、羽柴秀吉に服従。 德川家康向羽柴秀吉称臣。 | 1586.11.27 | |||
12月13日、戸次川の戦いにて、島津軍が羽柴秀吉配下仙石秀久軍に勝利。 户次川之战中,岛津军战胜羽柴秀吉属下仙石秀久军。 | 1587.1.21 | |||
12月19日、羽柴秀吉太政大臣叙任。豊臣姓を賜る。 羽柴秀吉就任太政大臣,得赐姓“丰臣”。 | 1587.1.27 | |||
1587 | 15 | 5月8日、島津義久、剃髪の上豊臣秀吉に降伏。 岛津义久剃发,改名龙伯,之后面见丰臣秀吉,正式投降。 | 1587.6.13 | |
6月19日、豊臣秀吉、バテレン追放令を発す。 丰臣秀吉发出传教士驱逐令(伴天连追放令)。 | 1587.7.24 | |||
10月1日、豊臣秀吉、北野にて大茶会を催す。 丰臣秀吉于北野举办大茶会。 | 1587.11.1 | |||
12月3日、豊臣秀吉、関東と奥州に惣無事令を発す。 丰臣秀吉对关东奥州发出惣无事令(禁止大名私斗)。 | 1588.1.1 | |||
1588 | 16 | 4月18日、後陽成天皇が聚楽第に行幸。 后阳成天皇驾临聚乐第。 | 1588.5.13 | |
7月8日、豊臣秀吉、刀狩令を発す。 丰臣秀吉发出刀狩令。(平民百姓不得带刀) | 1588.8.29 | |||
1589 | 17 | 6月5日、摺上原の戦いで、伊達軍が芦名軍に勝利。芦名義広は常陸に逃亡。 摺上原之战中,伊达军战胜芦名军。芦名义广逃往常陆 | 1589.7.17 | |
10月23日、北条家家臣猪俣邦憲が真田家支城名胡桃城を奪う。 北条家家臣猪俣邦宪夺取真田家辅城名胡桃城。(支城,以辅助主城为目的修置的城池) | 1589.9.30 | |||
11月24日、豊臣秀吉、北条家に対して宣戦布告。 丰臣秀吉对北条家宣战。 | 1589.12.31 | |||
1590 | 18 | 4月7日、伊達政宗、弟•小次郎を斬る。 伊达政宗将弟弟小次郎斩杀。 | 1590.5.10 | |
6月9日、伊達政宗、豊臣秀吉に臣従。 伊达政宗向丰臣秀吉称臣。 | 1590.7.10 | |||
7月5日、北条氏直、豊臣軍に降伏。小田原城落城す。北条氏政ら切腹させらる。 北条氏直向丰臣军投降。小田原城陷落。北条氏直被流放,北条氏政等被逼切腹自杀。小田原之战 | 1590.8.4 | |||
8月9日、豊臣秀吉、黒川城で奥州仕置を命ず。ここに天下統一なる。 丰臣秀吉于黑川城令奥州仕置。至此天下统一。 | 1590.9.7 |
1591~1605年【江戸開幕(江户开幕)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
---|---|---|---|---|
1591 | 天正 | 19 | 1月22日、豊臣秀長死す 丰臣秀长病故。 | 1591.2.15 |
2月28日、千利休自害 千利修自杀。 | 1591.4.21 | |||
8月5日、秀吉の子鶴松死亡 秀吉之子鹤松死亡。 | 1591.9.22 | |||
8月21日、秀吉、身分統制令を発布 秀吉发布身分统制令。 | 1591.10.8 | |||
9月4日、九戸政実の乱平定される。 九户政实之乱被评定。 | 1591.10.21 | |||
9月16日、豊臣秀吉、諸将に朝鮮出陣命令を発す[文禄の役] 丰臣秀吉命诸将出征朝鲜。【文禄之役】 | 1591.11.2 | |||
10月、豊臣秀吉、名護屋築城に着手 丰臣秀吉于名护屋开始筑城 | ||||
12月27日、豊臣秀吉が甥•秀次に関白を譲り、自らは太閤となる 丰臣秀吉将关白之位让与侄子秀次,自己成为太阁。 | 1592.2.10 | |||
1592 | 20 | 3月4日、日本軍、朝鮮に渡海開始 日 本军开始渡海向朝鲜出发。 | 1592.4.15 | |
5月2日、日本軍一番隊、小西行長ら漢城入城 日 本军一番队,小西行长等进入汉城。 | 1592.6.11 | |||
7月22日、秀吉の母の大政所•なか死す 秀吉之母大正所•仲去世。 | 1592.8.29 | |||
文禄 | 元 | 12月8日、「文禄」に改元される 改元“文禄” | 1593.1.10 | |
1593 | 2 | 閏3月、豊臣秀吉、伏見城へ移る 丰臣秀吉迁至伏见城 | ||
4月18日、日本と朝鮮の間で休戦協定結ばれる 日本与朝鲜签订休战协定。 | 1593.5.18 | |||
8月3日、豊臣秀頼生まれる 丰臣秀赖出生。 | 1593.8.29 | |||
1594 | 3 | 2月下旬、秀吉、吉野で花見 秀吉于吉野赏花。 | ||
1595 | 4 | 7月8日、関白豊臣秀次自害 关白丰臣秀次涉嫌谋反被命切腹自杀。 | 1595.8.13 | |
8月2日、秀次一族、九条河原にて処刑 秀次一族于九条河原被处刑。 | 1595.9.5 | |||
11月7日、秀吉が急に病む 秀吉突染重病。 | 1595.12.7 | |||
1596 | 5 | 閏7月13日、伏見に大地震が起こる 伏见发生大地震。 | 1596.9.5 | |
9月1日、朝鮮との和平交渉決裂する 与朝鲜的和谈决裂 | 1596.10.22 | |||
9月2日、朝鮮への再征が決定される [慶長の役] 决定再次远征朝鲜【庆长之役】 | 1596.10.23 | |||
9月、サン=フェリペ号、土佐に漂着する 圣菲利普号(西班牙船只)漂流至土佐 | ||||
慶長 | 元 | 10月27日、「慶長」に改元される 改元“庆长” | 1596.12.26 | |
11月、長崎でキリシタン26名が処刑される[26聖人殉教] 26名天主教徒于长崎被处死。【日本26圣人】 | ||||
1597 | 2 | 1月、日本軍が渡海を開始する 日 本军开始渡海。 | ||
2月、秀吉が慶長の役の陣立書を発表 秀吉发表庆长之役阵立书。 | ||||
1598 | 3 | 1月4日、蔚山城の戦いで援軍が到着し、明軍退却 蔚山城之战中援军到来,明军退却 | 1598.2.9 | |
3月15日、醍醐の花見催される 举办醍醐赏(樱)花会 | 1598.4.20 | |||
7月15日、秀吉が諸大名に対して秀頼への忠節を誓う誓詞を要求 秀吉要求诸大名提交向秀赖效忠的誓词。 | 1598.8.16 | |||
8月18日、豊臣秀吉没す享年62歳 丰臣秀吉去世享年62岁 | 1598.9.18 | |||
8月25日、五大老、朝鮮にいる日本軍に撤退を発令 五大老向在朝鲜的日 本军发布撤退命令 | 1598.9.25 | |||
11月25日、日本軍朝鮮より撤退 日 本军从朝鲜撤退 | 1598.12.23 | |||
1599 | 4 | 閏3月3日、前田利家没す 前田利家去世。 | 1599.4.27 | |
閏3月4日、加藤清正ら七将が石田三成邸を襲撃 加藤清正等七将袭击石田三成宅邸。 | 1599.4.28 | |||
1600 | 5 | 3月16日、オランダ船リーフデ号、豊後国佐志生に漂着 荷兰船“慈爱号(De Liefde)”漂流至丰后国佐志生。 | 1600.4.29 | |
4月10日、徳川家康、ウィリアム=アダムズと会見 德川家康与威廉·亚当斯(William Adams,三浦按针)会面 | 1600.5.22 | |||
5月7日、徳川家康が上杉景勝討伐令を発す 德川家康发出上杉景胜讨伐令。 | 1600.6.17 | |||
6月16日、徳川家康、大坂城を出陣 德川家康出征大坂城 | 1600.7.26 | |||
7月17日、石田三成、毛利輝元を総大将とし、徳川家康征伐を宣言 石田三成联合诸大名,以毛利辉元为总大将,宣言征讨德川家康。 | 1600.8.25 | |||
7月25日、会津討伐軍、小山評定にて石田三成征伐を決定 会津征伐军召开军事会议(此会议被称为“小山评定”),决定征讨石田三成。 | 1600.9.2 | |||
8月1日、西軍により伏見城が落城。徳川方の鳥居元忠自害。伏見城の戦い 西军攻陷伏见城。德川方的鸟居元忠自杀(或被铃木重朝杀死)。伏见城之战 | 1600.9.8 | |||
8月23日、東軍により岐阜城落城織田秀信降伏 东军攻陷岐阜城织田秀信投降。 | 1600.9.30 | |||
9月15日、関ヶ原の戦いで東軍が西軍に勝利 关原之战东军战胜西军。 | 1600.10.21 | |||
9月21日、石田三成が捕らえられる 石田三成被捕 | 1600.10.27 | |||
10月1日、石田三成ら3名を処刑 石田三成等3命被处刑。 | 1600.11.6 | |||
1602 | 7 | 5月1日、徳川家康、二条築城を命じる 德川家康命令修筑二条城。 | 1602.6.20 | |
1603 | 8 | 2月12日、徳川家康が征夷大将軍となる 德川家康成为征夷大将军。 | 1603.3.24 | |
7月28日、豊臣秀頼と家康の孫千姫が結婚 丰臣秀赖于家康之孙千姬结婚。 | 1603.9.3 | |||
1604 | 9 | 5月3日、幕府、糸割符制度を確立 幕府确立糸割符制度 | 1604.5.31 | |
7月17日、徳川家光が生まれる 德川家光出生。 | 1604.8.12 |
1605~1651年【元和偃武(元和偃武)】
西暦 | 年号 | おもな出来事/主要事件 | 新暦換算 | |
---|---|---|---|---|
1605 | 慶長 | 10 | 4月16日、徳川秀忠、二代将軍となる。 德川秀忠成为江户幕府第二代将军。 | 1605.6.2 |
1607 | 12 | 5月6日、徳川家康、朝鮮に国書。 德川家康向朝鲜发出国书 | 1607.7.29 | |
7月3日、徳川家康、駿河へ移る。 德川家康迁至骏河。 | 1607.8.25 | |||
1609 | 14 | 3月、対馬の宗氏と朝鮮とのあいだで己酉約条締結さる 对马的宗氏与朝鲜缔结庆长条约。 | ||
4月5日、島津軍の前に琉球王朝降伏 琉球王朝向岛津军投降。 | 1609.6.1 | |||
7月25日、徳川家康、オランダとの貿易許可の朱印を与える 德川家康在与荷兰的贸易许可上印上朱印(红色官印)。 | 1609.8.24 | |||
9月、幕府、西国大名の500石積み以上の船を没収する 幕府将西国大名装载量500石以上的船只没收。(形容和船装载量时 1石=约0.278立方米) | ||||
1611 | 16 | 3月28日、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見 德川家康与丰臣秀赖在二条城会见。 | 1611.5.10 | |
6月24日、加藤清正死去。享年50歳 加藤清正死去。享年50岁。 | 1611.8.2 | |||
1612 | 17 | 3月21日、朱印状偽造などの罪で、本多正純与力岡本大八火刑 因伪造朱印状等罪,本多正纯手下重臣冈本大八被处以火刑。 | 1612.4.21 | |
3月21日、駿府城内にキリシタン禁令出される 骏府城内施行天主教禁令。 | 1612.4.21 | |||
5月6日、長崎奉行暗殺未遂の罪で有馬晴信切腹 有马晴信,因长崎奉行暗杀未遂罪切腹自杀。(日方的记录) | 1612.6.5 | |||
1613 | 18 | 4月25日、大久保長安死去。享年69歳 大久保长安死去。享年69岁 | 1613.6.13 | |
6月16日、徳川家康、公家衆法度•紫衣勅許法度を制定 德川家康制定公家众法度•紫衣勅许法度 | 1613.8.2 | |||
7月9日、大久保長安遺児•家臣処刑される 大久保长安遗子•家臣被处刑 | 1613.8.24 | |||
9月15日、支倉常長らイスパニアへ向け月の浦を出立 支仓常长等由月之浦出发前往西班牙。 | 1613.10.28 | |||
1614 | 16 | 1月19日、大久保忠隣改易される 大久保忠邻被贬为平民。 | 1614.2.27 | |
7月21日、方広寺鐘銘事件が起こる 方广寺钟铭事件发生。 | 1614.8.26 | |||
9月24日、高山右近マニラ追放 高山右近被流放至马尼拉 | 1614.10.27 | |||
11月15日、大坂冬の陣開始 大坂冬之阵开始。 | 1614.12.15 | |||
12月19日、講和がなる 双方和议成立。 | 1615.1.18 | |||
1615 | 20 | 5月5日、徳川家康、二条城を出陣(大坂夏の陣) 德川家康出征二条城。大坂夏之阵 | 1615.6.1 | |
5月8日、徳川軍により大坂城落城。豊臣秀頼自害。 德川军攻陷大坂城。丰臣秀赖自杀。 これ以後、日本では戦いが止む(元和偃武) 从此日本内乱基本结束。天下再无大的战事,幕府于7月改元“元和”,史称“元和偃武”。 | 1615.6.4 | |||
7月7日、江戸幕府、武家諸法度を制定 江户幕府制定武家诸法度。 | 1615.8.30 | |||
元和 | 元 | 7月13日、「元和」に改元 改元“元和” | 1615.9.5 | |
7月19日、江戸幕府、禁中並公家諸法度を制定 江户幕府制定禁中并公家诸法度。 | 1615.9.11 | |||
1616 | 2 | 1月21日、駿河国田中城で徳川家康発病す 德川家康于骏河国田中城病倒。 | 1616.3.3 | |
3月21日、徳川家康、太政大臣となる 德川家康成为太政大臣 | 1616.5.6 | |||
4月17日、徳川家康没す。享年75歳 德川家康去世。享年75岁。 | 1616.6.1 | |||
7月6日、松平忠輝改易される 松平忠辉被贬为平民、 | 1616.8.18 | |||
8月8日、幕府、キリシタンの渡来禁止し、明船以外は長崎と平戸に寄港地を限定する 幕府禁止天主教徒渡海入境,明朝以外的外国船只只能在长崎与平户港口停泊。 | 1616.9.18 | |||
1617 | 3 | 2月21日、家康に東照大権現の称号が贈られる 德川家康得赐神号“东照大权现”。 | 1617.3.28 | |
7月21日、幕府、寺社法度制定 幕府制定寺社法度(寺院諸法度) | 1617.9.9 | |||
8月16日、徳川秀忠、オランダ貿易を平戸に限定した上でオランダ人に朱印状を与える 德川秀忠,在只能于平户地区进行贸易的前提下授予荷兰人朱印状。 | 1617.9.15 | |||
1619 | 5 | 6月9日、幕府、福島正則を信濃•川中島に減封する 因违反武家诸法度,福岛正则50万石封地被没收,转封信浓川中岛4万5000石 | 1619.7.19 | |
1620 | 6 | 6月18日、秀忠の娘•和子が入内 秀忠之女和子正式入宫成为女御。 | 1620.7.17 | |
1622 | 8 | 10月1日、下野宇都宮10万石の本多正純改易される 下野宇都宫十万石领本多正纯被贬为平民。 | 1622.11.3 | |
1623 | 9 | 7月23日、徳川家光、三代将軍となる 德川家光成为3代将军 | 1623.8.19 | |
11月、イギリス日本より撤退 英国从日本撤退、 | ||||
1624 | 寛永 | 元 | 2月30日、「寛永」に改元 改元“宽永” | 1624.4.17 |
3月、幕府イスパニア(スペイン)と断交 幕府与西班牙断交 | ||||
7月12日、日本に潜入していたフランシスコ会宣教師ソテロ、長崎にて処刑される 潜入日本的基督教方济会传教士Luis Sotelo于长崎被处刑。 | 1624.8.25 | |||
9月6日、高台院ねね没す。享年83歳 高台院宁宁去世,享年83岁 | 1624.10.17 | |||
1629 | 6 | 11月、紫衣事件発生 紫衣事件发生。 | 1622.11.3 | |
1631 | 8 | 6月、奉書船制度開始 奉书船制度开始施行 | ||
1632 | 9 | 1月24日、徳川秀忠没す。享年54歳。 德川秀忠去世。享年54岁。 | 1632.3.14 | |
5月24日、徳川家光、伊達政宗ら有力大名諸侯の前で熊本の加藤忠広改易を宣言 德川家光,在伊达政宗等有力大名诸侯面前宣布将熊本的加藤忠广贬为平民 | 1632.7.11 | |||
1633 | 10 | 2月、幕府、海外在留5年以上の者の帰国を禁じる 幕府禁止在海外停留5年以上的人回国。 | ||
1635 | 12 | 5月28日、幕府、日本人の海外渡航を禁止する 幕府禁止日本人出航海外、 | 1635.7.12 | |
6月2日、幕府、参勤交代の制を定める 幕府规定参勤交代制度 | 1635.7.15 | |||
1636 | 13 | 5月24日、伊達政宗没す。享年70歳 伊达政宗去世。享年70岁、 | 1636.10.27 | |
5月28日、幕府、海外密航した者の処罰を制定し、外国人子孫を追放を決定 幕府制定针对海外偷渡者的处罚条例,并决定流放外国人子孙 | 1636.7.1 | |||
1637 | 14 | 10月25日、島原の乱発生 岛原之乱爆发 | 1637.12.11 | |
1638 | 15 | 2月28日、島原の乱平定さる 岛原之乱被平定。 | 1638.4.12 | |
1639 | 16 | 7月、幕府、ポルトガル船の日本来航を禁止する 幕府禁止葡萄牙船只进入日本。 | ||
1641 | 18 | 4月、オランダ商館を平戸から長崎へ移動 荷兰商馆由平户移至长崎、 | ||
1643 | 20 | 3月、幕府、田畑永代売買禁令を出す 幕府发出田畑永代売买禁令 | ||
1649 | 慶安 | 2 | 2月26日、慶安の御触書が出される 庆安御触书发布 | 1649.4.7 |
1651 | 4 | 7月23日、由井正雪の幕府転覆の企みが発覚し、手丸橋忠弥逮捕 由井正雪颠覆幕府的阴谋败露,主谋者之一的丸桥忠弥被捕。 | 1651.9.7 | |
7月26日、由井正雪自刃する(慶安事件慶安の変) 由井正雪自尽。(庆安之变) | 1651.9.10 |
注1:这里有两种有力的说法,第一种是当时4岁的永寿丸连同春王丸,安王丸一起被抓。另一种是永寿丸=永寿王丸,当时并不在场,另一个倒霉的孩子被抓。
注2:信长公记原文(此处牵扯到信长性格为人至今仍有争论):(竹生島参詣の事)四月十日、信長御小姓衆五•六人召列られ、竹生嶋御参詣。長浜羽柴筑前所迄御馬にめされ、是より海上五里、御舟にて御社参。海陸ともに片道十五里の所を、日の内に、上下三十里の道御帰りなされ、誠に希代の題目なり。併、御機力も余人にかはり、御達者に御座候の処、諸人感じ奉り候なり。遠路に候へば今日は長浜にご逗留候はんと、何れも存知の処、御帰り候てご覧候へば、御女房たち、或は二の丸まで出でられ、或は桑実寺薬師参りもあり。御城内は行きあたり、モダヘ焦、仰天限りなし。則、くゝり縛り、桑実寺へ女房共出だし候へと御使を遣はされ候へば、御慈悲に御助け候へと長老詫言申上げられ候へば、其長老をも同時に御成敗候なり。
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日本战国时代地图
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1.戦国時代地図 安土桃山時代旧地名地図
2.令制国一覧
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